子宮頸がんを経験した方のインタビュー
子宮を失った後の私の人生、一体どうなってしまうんだろう
がんの告知を受けてから、生活は一変しました。子宮摘出の手術前に抗がん剤治療を2回、さらに手術後に放射線治療を行うことになり、仕事を辞めて大阪の実家に戻りました。宣告から1か月後、すべての検査結果が出そろう頃には、腫瘍が腰の神経を圧迫し、息もできなくなるような痛さが続くようになっていました。あっという間に進行するがんに驚き、徐々に病人になっていく怖さを感じました。
抗がん剤治療では、脱力感と微熱、吐き気が続き、髪の毛も抜けました。今までに味わったことのないような辛さでしたが、ここまでは「やるしかない」という気持ちだったんです。ところが、手術入院が迫って来ると、急に「子宮を失った後の私の人生、一体どうなってしまうんだろう」という恐怖に押しつぶされてしまって……。
きちんと納得しなければと思い、手術入院の前日に黙って上京。一人暮らしをしていた部屋で夕方まで泣き続けました。そんな私を救ってくれたのが、「ただ生きなさい。もう一度笑えるまで生きてほしい」という母のメールにあった言葉。その言葉に背中を押され、やっと手術とその後の人生に向き合えるようになりました。
 
 
「阿南さんのような生き方もいいな」というモデルケースになりたい
阿南里恵さんのお話
手術では、子宮、子宮を支える靭帯、リンパ節を切除しました。放射線治療は通院でよかったので、私はすぐにでも東京に戻りたい気持ちでいたんです。
ところが、体力がかなり落ちていて、気持ちに体がついていかない。これはとても辛い経験でした。約1年後には東京で再就職することができたのですが、無理をすると高熱が出てしまう後遺症が響いて、結局辞めることになってしまいました。その後、2008年には、兼ねてから目標にしていたイベント会社を設立。今は本当に幸せな毎日を送っています。
それと同時に、23歳で子宮頸がんになった体験を多くの若い女性に知ってもらうため、講演会や学校の授業などでお話しする活動を続けています。「阿南さんのような生き方もいいな」と思ってもらえるような、ひとつのモデルケースになれればと思っています。最初は反対していた母も、今では私の活動を理解して支えてくれています。はじめて講演することになった時、母親としてのメッセージを皆様にお伝えしようと、母に手紙を書いてもらいましたので、ここでその一部をご紹介したいと思います。
 
阿南里恵さんのお母様からのメッセージ
「がんになると、かなり大きなお金が必要となります。また、精神的負担はそれ以上です。代わってやりたい思いと、代わってやれない現実が毎日私を追い詰めました。15年早く、ワクチンが日本にあれば、私の娘も子宮を失うこともなく、結婚し、赤ちゃんを産み、優しいお母さんになれたかと思うと残念です。実は、娘の病気を世間に公表するのがとても嫌でした。しかし、子宮頸がんの予防活動をどうしてもしたいという娘の熱意に心動かされ、今では私も何か応援できればと思っています。」
 
また、みなさんは「キャンサーギフト」という言葉をご存じでしょうか。私もこのような活動を始めてから出会った言葉なのですが、がんになったからこそ得られた素晴らしいことがあるという意味で使われています。術後5年に渡る経過観察の時期は、自分の未来が想像できず、本当に人生のどん底をはい回ったような気分でした。しかし、今振り返ってみると、がんを乗り越えたからこそ、人の優しさや親の愛情などに気が付くことができた時期でもあったと感じています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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